terre des hommes 2

書き忘れや書き損ねについての備忘

過去の「年代本」から考える現代のライフコース観

※連載と関連した内容の記事(ボツ回)ですが、連載記事を掲載しているプレジデント社とは、この記事に関しては何の関係もありません。文責はすべて筆者にあります。

 

 連載3テーマめの「年代本」ですが、5回分の連載の後、当初はもう1回分掲載する予定でした。それは過去の「年代本」との比較という回でした。ただ編集者さんとの相談の結果、連載の趣旨に合わないのではないかということで掲載見送りになったのでした。

 今後の回で復活掲載するかなと考えたこともあったのですが、まあテーマごとでやっているのでほぼありえないと考え、せっかく書いたのにもったいないのでここに置いておくことにします。では、以下その見送り(ボツ)回です。

 

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 今回のテーマの最後に、もう一人の「年代本」をとりあげてみることにしたいと思います。とりあげたいのは、おそらく一定の年代以上の方は懐かしく思い出されるでしょう、NHKアナウンサー(当時)の鈴木健二さんの著作です。

 鈴木さんは1980年代前半に『気くばりのすすめ』(講談社、1982)をはじめ、手がけた本を次々とベストセラー・ランキングに送り込んだ、当時の生き方論の売れっ子作家でした。この鈴木さんが同時期に手がけたのが、『男は20代に何をなすべきか “人間の基本”を身につけるために』(大和出版、1982)、『30代に男がしておかなければならないこと』(大和出版、1980)、『男が40代にやっておくべきこと 人生の勝負はここで決まる』(大和出版、1980)といった、まさに今書店に並んでいるものとまったく同じようなタイトルの「年代本」でした。「年代本」について考える締めくくりとして、過去との比較を以下では行ってみようと思います。

 まず、鈴木さんの著作でも基本的な「年代本」のロジックは同様です。つまり、つねに「最後の準備期間」といった言葉が用いられ、今やらなければ「決定的な差」がつく、といった物言いから話が進められていくのです。

 全体的に共通する点としてはもう一つ、「現代若者気質」あるいは日本人論を対岸において、あるべき生き方が語られるというスタイルです。以下のように、若者あるいはそのライフスタイルを愚劣で退廃的なものとみなす(決めてかかる)という語り方は、「年代本」という書籍ジャンルの基本的特性なのかもしれません。とはいえ、当時の鈴木さんのほうが辛辣かもしれません。

 

「いまの20代は楽なほうへ楽なほうへ行きたがるように見える」(鈴木20、212p)
「オンナのコを乗せてクルマをブッ飛ばし、ステレオをガンガン鳴らすことしか知らない大学生など、クズの中のクズである。可能性を自分自身で放棄したようなものである。こうした学生に未来は全く無いのも同然である」(79p)
「若者が電車の中で夢中になってマンガの本を読んでいる風景ほど滑稽で、しかも、おいキミ将来は大丈夫かと心配になるものはない」(77p)

 

 こうした共通点の一方で、近年の「年代本」とは異なった価値観、ライフコースの展望を多く見てとることもできます。まずは20代論から見ていくことにしましょう。まず序盤にはこうあります。

 

「20代には人生にかけがえのない灯が二度ともされる。それは20代前期にやってくる就職と、後期に訪れてくる結婚である」(鈴木20、25p)。

 

 そう、結婚が当時の20代の課題とされているのです。再び厚生労働省『人口動態統計』を参照すると、『男は20代に何をなすべきか』が出版された1982年の平均初婚年齢は男性28.0歳、女性25.3歳でした。今より4年弱早いわけですが、そうした傾向が当時の、また現代の「年代本」に反映されていることを改めて確認することができます。

  20代論でもう一つ興味深いのは、仕事についての言及です。

 

「新入社員がやるべきことは何か。それは第一におじぎである」(鈴木20、115p)
「相手よりも深く頭を下げ、決して相手よりも先に上げなければ秀れた人格と認められる」(63p)
「15分以上前に行って何をするかと言えば、掃除である。新人で忘れてはならないのは雑巾である。それで自分の机はもちろん、課長をはじめ全先輩の机を拭くのだ」(120p)

 

 このように、とにかく礼儀を重視し、ひたすら下働きすることが鈴木さんの20代論では繰り返されます。現代の「年代本」のように、仕事の仕方を自分で考えることはほぼ言及されません。「新人は最下層」(115p)であることを自覚し、「コキ使われても喜々として働け」(117p)、「自分の心に価値のある職業」(114p)を選びさえすれば将来は間違いない――。川北義則さんが「自分が勤めている会社が、近い将来どうなっていくか真剣に考えてみたことはあるだろうか」(川北40、39p)と述べている現在と比べると、会社の業績が悪化するなどということは思うべくもなく、とにかく会社の価値観に染まることが20代の働き方とされていた当時の楽観性は羨ましく見えてしまうほどです。

  30代論では、仕事についての具体的な話がようやく出てきます。人の上に立つようになる時期だとして、「企画力」や「行動力」の向上が求められています。40代はこれらを成果に還元する「勝負の時」「人生の最高潮期」とされています。こうした見方は現代の、仕事志向の「年代本」と共通するところです。

 また30代論と40代論では出世についての言及があり、「サラリーマンが満たし得るただ一つの欲望は出世欲である(中略)男は出世欲を賭けて張り合いながら仕事をしているようなものである」(鈴木40、47p)として出世礼賛がなされています。20代論と合わせて考えるなら、会社の価値観に染まることが重要だとされるとき、その先にあるのは当然、その会社で出世をしていくことになりますよね。現代の「年代本」にも出世志向はありますが、それは出世そのものよりも、自分のやりたいことができるようになるための出世でした。しかし鈴木さんの出世論では、地位そのものに積極的な意味が与えられています。その意味でも、単に仕事というよりも、会社員としてどのような存在であるかということが、当時の男性の自己意識の中核にあったといえるのではないでしょうか。

  もう一点、30代論において興味深い、つまり特に当時の社会的状況を表わしていると私が考えるのは、以前触れたマイホームについての言及です。

 

「今や自分の家を持つというのは、一戸建てにしろマンションにしろ、日本の男の人生での大目標の一つである」(鈴木30、125p)
「もし、30代でこのことをやらずに、なあに、退職金でどうにかするさなどと考えていたら、人生はまったくお先真っ暗である」(126p)
「家づくりは家庭づくりである」(132p)
「登場してくる問題が、家の構造や部屋の設定である」(133p)

 

 一国一城の主という表現がまさに当てはまる、男の「大目標」としてのマイホーム。出来るならば一戸建てで、家庭の生活設計に照らし合わせて間取りを決めること。この課題に向き合わず、住居を転々とするなどということは当時からすれば愚の骨頂です。しかし逆に、現代の「年代本」からすれば、一つの住居にしがみつくことこそ愚の骨頂とされるわけです。

 ここで言いたいのは、どちらが正しいということではありません。鈴木さんの著作を最後に持ってきたのは、「年代本」、ひいては自己啓発書が提供するメッセージ、自己啓発書が誘うライフスタイルは、時代によって異なるということを示したかったためです。もちろん、だからといって、現代の自己啓発書に価値がないというわけではありません。むしろ自己啓発書は、その時代ごとにおける、生き方や働き方についての価値観が圧縮された「歴史資料」なのであり、それが多くの人々に読まれることによって新たに価値観を創り出していく「旗振り役」でもあるのだということです。

 しかしながら、そのような「旗」がかつてないほど乱立しているのが今日だともいえます。連載では「成功者文化」という側面があることを指摘するなど、大まかな共通傾向については言及しましたが、各年代における生き方の「公式」を導き出すことはできていません。むしろ「年代本」、ひいては自己啓発書が多く世に出れば出るほど、どの啓発書を参照するのかという新たな問題が生まれ、生き方や働き方をめぐる答えは出し難くなるのかもしれません。

テーマ1「自己啓発書ガイド」に関する補足事項2

 ちょっと間が空きましたがもう一つ、考えたことについて書きます。

 

 第3回の連載では、「ビジネス書を中心とした自己啓発書が居並び、何列にもわたって平積みされるターミナル駅の大書店と、自己啓発書が他の書棚と変わりなく陳列されている(もしくはコーナーさえない)郊外・地方の駅前やロードサイドの書店では、自己啓発書の売れ行きや位置づけは全然違いますよね」ということを書いたのですが、それってどうですかねというご意見をいただきました。

 

 確かに、ざっくりと書きすぎてしまったかなと思って反省しています。書店員さんの話(具体的にはビジネス書の売れ行きの店ごとの違い)にもとづいて書いた箇所だったのですが、大書店でなくとも、自己啓発書が目立つ所に置かれているような書店は多いでしょうし、それは地域に関係がないかもしれません。

 

 というより、全国規模で書店チェーンが展開され、またコンビニでも自己啓発書コーナーが置かれている今日では、自己啓発書があるかないかという点では大きな違いはないのかもしれません。

 

 私が強く押すべきだったのは、連載における表現でいえば「位置づけ」の方だったかと思っています。ツイッターでつぶやいたことを書き直すと、「独立した自己啓発書の売り場があり、その啓発書の中でも細かいカテゴリ分けがなされていて、担当者が売れ行き動向や新刊にアンテナを張っていて、実際に売れ行きも良くて…という、ある程度相関する諸傾向が、たとえば東京であれば丸善丸の内のような『総本山』を頂点としてなだらかに階層をなしていて、地方・郊外は総本山に比べると傾向の弱さが看取できるのではないか」ということを言いたかったのでした。

 

 で、その観点から先の「自己啓発書があるかないか」をもう一度考え直すと、「『自己啓発書』というカテゴリ(他のカテゴリとの区分および啓発書内での区分)をはっきりと意識して並べ、良書と思って積極的に売りたい本が多く取り次がれているような書店か、売れている本を取り寄せていったら、あるいは本部の方針に従って陳列していたら自己啓発書コーナーが出来あがっちゃっていたか」みたいな違いにもつながってくるのではないか、と今のところでは考えています。

 

 とはいえ、データをもっとしっかり出さねば、研究者の書きものとしてはまずいわけですので――細かいデータはなかなか書店員さんでも集計・把握していないことが多く、またなかなか公表できるようなデータがないのですが――今後はもう少しこうした細部を詰めながら話をしなければいけないと反省しております。

テーマ1「自己啓発書ガイド」に関する補足事項

 連載が第4回まで終わり、1つめのテーマ「自己啓発書ガイド」についての話も終わりました。読んでいただいた方は、どのようなご感想を抱かれたでしょうか。

 

 さて、このブログは、連載で載せきれなったことや、連載中にいただいたご意見・ご批判などについて、自分が扱いきれる限りで対応し、自分自身の備忘としておこうという趣旨で設置されています。

 

 ということで、1つめのテーマに関する備忘ですが、今のところ二点です。一つは補足事項、もう一つはいただいたご意見から考えたことです。ちょっとこれから用事があるので、まずは補足事項だけ先に。

 

 といっても本当にちょっとした補足事項で、「自己啓発書ガイド」は書籍だけで展開されているのではない、というより、書籍よりネットが先行していた側面があるという話です。「自己啓発書ガイドブック」の中でも、いくつか著名な/オススメの書評ブログがしばしば掲載されていることを考えても、本よりネットが先行していたのかなと思うところはあります。よく紹介されるのは小飼弾さんの「404 Blog Not Found」などでしょうか。書評ブログの歴史?等については、後追いしている私よりも詳しい方が世の中に沢山いらっしゃると思います。

 

 「自己啓発書ガイド」は雑誌メディアでも展開されています。例えば『SPA!』では2004年から半年ごとにジャンル別の「ビジネス本大賞」のコーナーを(私が確認できた限りでは2008年まで)設けていますし、それ以外の雑誌でも、2000年代中頃あたりからビジネス書特集・記事がちらほら組まれるようになっています。

 

 いずれにせよ、2000年代にビジネス書(広くいえば自己啓発書)の売れゆきが良くなるのと歩調を合わせるようにして、各種メディアで「自己啓発書ガイド」が展開されるようになってきた、ということです。言いたいこと自体は連載と何ら変わりませんので、本当に補足事項でした。

このブログの位置づけについて

 説明の順序が逆になりましたが、連載を始めるにあたって、新しくブログを立ち上げることにした理由を少しだけ書いておきます。

 

 というのは、連載は、文字数制限こそ一応はないのですが、大体のとりきめ(前回書いたように大体8000字くらい)があって無限に書くことはやはりできず、また学術的な媒体ではないために細々(くどくど)とした説明ができないので、いくつか省略してしまったことを、基本的には自分の備忘録として作っておこうと思ったのです。

 

 温かく見守っていただければ幸いです。

『PRESIDENT Online』での連載を始めるにあたって

●連載をはじめます
 博論を元にした単著を出版してからはや4カ月。反響が色々ありました。といっても新聞の書評、新聞・雑誌からの取材が数えるほど、あとはネットで色々書いて下さった方がいるという程度ですが、それでも、今までの自分の人生にはない貴重な体験をさせてもらっています。

 

 さて、そうした反響の一つといえると思いますが、拙著を読んでくださった『PRESIDENT Online』というサイトの編集担当の方からお声かけをいただき、同サイトで連載を持たせていただくことになりました。連載タイトルは「ポスト『ゼロ年代』の自己啓発書と社会」です。

 

 そのコンセプトは連載初回の記事に書いてあるので省略しますが、基本的には拙著『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』勁草書房、2012)のその先の話とだけ簡単に言っておきます。

 

 ついでに改めて言っておきますが、この本は「これからは自己啓発の時代だ!自己啓発しよう!」という趣旨ではなく、「自己啓発書が売れているみたいだけど、何でそんなことが起きているんだろうね?」という趣旨です。その点お間違えなきよう、よろしくお願いします。

 

●連載を引き受けるにあたって

 連載を引き受けるにあたっては、少し考えました。具体的には、言い方は色々あると思いますが、学術的とはいえない媒体で、やはり純粋に学術的とはいえない書き物をするということについてです(もちろん、今回の連載では、自分の今までの書き方をある程度保持することを認めてもらっていますので、これは雑駁に言ってということです)。

 

 自分自身、こういうところで露出するのはどうなのかな、そもそも自分にその能力があるのかな(それを勘違いしかけているのではないかな)、と考えました。また、何人かの方に相談して、その結果、「自分を安売りするな」から、逆に「今の時代、アカデミックな領域での業績だけでなく、自分にある程度一般的な訴求力があることを示しておく必要はあるよ」まで、色々なご意見をいただき、やはり考えました。

 

 等々、色々ぐるぐるしたのですが、結局こう考えることにしました。

 つまり、自分の本を読んで面白いと言ってくれて、また最初に声かけをしてくれた編集者さんに、まず仁義として応えるべきなんじゃないか、というか応えたいじゃあないかと。また、自分にその能力があるかないかは分からないけれど、とにかくできるだけのことをして、そこでどのような反応があるかをしっかり受け取ろうじゃないかと。まだまだ研究生活の先は長いはずなのだから、色々経験してみるのも悪いことじゃないだろうと。

 まあ、せいぜいこの程度のことしか考えられない自分ですが、とにかくやってみようということにしたわけです。

 

●今の時点で少し考えたこと

 また、何か学べるところもあるんじゃないかとも考えています。もちろん各回の連載で素材となる資料を読み込むことで学ぶものもありますが、たとえばアカデミックな書き物の意義、というようなこともこの連載を始めるにあたって考え始めています。

 

 具体的にいうと、今回の連載は大体1回分が8000字くらい、それを4トピックに分けて、約2000字分を1週間ごとに配信というスタイルになっています。で、いってみれば、この2000字ごとに何か一つ言わなければならないわけです。

 

 一方、アカデミックな書き物だと、論文一本が大体20000字くらいです。ことによると、この20000字でようやく何か一つのことをいう、というのがアカデミックな書き物ではないかと思っています。先行研究を調べて巨人の肩を登って登って、最後にほんの少しだけ向こうをのぞき見るような、ということがよく言われます。それをするために、先行研究の整理、問題点の導出、作業課題の導出、手続きにのっとった論証もしくはデータの検証、考察、というような一連の流れを一つ一つ行っていきます。で、それで何か一つやっといえる。

 

 こういうと何だか面倒な感じがしますが、でもこうやることで初めて、しっかりとした知識を新たに生み出すことができるのだなと、この連載の原稿を書きながら改めて思うに至りました。

 2000字で何か一つ言うというスピード感を鍛えることも重要で(特に自分はそういう訓練をまったくしてこなかったので)、そういう場で生きている物書きの方々はすごいなあと実感もしているのですが、その一方で、翻ってアカデミックな書き物の意義というか、それでないと出来ないことがあるなあ、とも思ったりしています。


 

 とまあ色々書きましたが、できるだけの力を注ぎこんでやっていこうと思います。ご意見・ご批判など、お気軽にいただければ嬉しく思います。